2002/12/13


 12月に入りほぼ毎日雨が降り続いている。時折晴れ間が見えたかと思い喜んでも、気がついた時にはまた雨の中。雨が降っているのが普通だから再び降り始めたことに気づかない。こんな気候なので当たり前だが、毎日泥だらけになりながらサッカーをしている。

 11月初めに復帰した後リーグ戦カップ戦含めて7試合すべての試合ベンチには入っているが出場したのは4試合。特に11月はまだまだ自分のリズムでプレーしていなかったと思う。12月に入りプレーに切れが出てきたと思えるし、攻守にわたりボールに触る回数が増えてきた。やはりボールに数多く触れるとリズムも出るしやってて楽しい。

 ブラガのスペイン人監督カストロ・サントス、訪ねて来てくれたジーコの両氏に言われた事だが「喜びをもってプレーする」という事の大事さを感じる。ボールを受けずにまたはボールを奪わずにサッカーを楽しむ事はありえない。
 復帰直後の11月はそういう事を忘れていたかもしれない。

2002/11/11

マデイラ島


 スポルティング・ブラガのプリメーラ(トップ)チームの選手構成はブラジル人5人、スペイン、ナイジェリア人各2人ずつにアンゴラ、アルゼンチン、オーストラリア、日本人が各1人の13人の外国人を含む24人ほどで構成されている。また、外国人のうちEU国籍を持っていないのは7人でそのうち4人が18人の試合用メンバーに登録が出来る。セカンドチームにあたるセグンダ・ベーのチームとかけ持ちしている選手も3・4人いて、メンバー外の時には国内3部リーグにあたるリーグ戦の試合に出場している。

 土曜日はアフリカ大陸の近くに浮かぶマデイラ島で初のスタメン出場を果たした。結果は3連敗となる0-3の敗戦。常夏の島でのデイゲームはしんどかったが、90分走り続けた。初スタメンの試合を飾れなかった事は残念だったが、10月初めのラクタートテスト(ランニングと血液検査による体力測定)ではチームでダントツの最下位だった事を考えると思ったよりもやれる事がわかり自信にはなったしボールも前節と比べると倍くらいは回ってくるようになった。

 今後は一つの無駄も無くしチャンスをつかんでいきたい。

2002/10/03

フェジョン


 前節に勝利したからか、または次節が強豪スポルティング・リスボンをホームに迎えるからなのか、皆で昼食をとった。

 木曜日の午前練習後に選手と監督、現場スタッフ、クラブの役員が皆でレストランに集まりブラジル料理を食べたのだ。ここはブラジルに数年住んでいたことのある夫婦が始めたピザ屋で、フェジョアーダなどのブラジル料理も出すらしく試合後の夜にはチームのブラジル人が家族総出で集まっているという事だった。そういう事もあり今回はチームに5人いるブラジル人が中心になって皆を集めてくれた。かまどで焼いたピザトーストや海鮮リゾット、久しぶりに食べたブラジルの豆料理フェジョンなどがとても美味しかった。

 今週のスポルティング、その次のベレネエンセスとの対戦後に2週間の間があるのでそのタイミングでの復帰を目指して現在はリハビリを続けている。

2002/09/11

旧市街


 ブラガに来てから早くも1ヶ月以上の時間が流れた。

 7月末の膝の怪我の影響でリーグ戦開幕後も別メニューを続けている。開幕に間に合わせようと復帰をあせった時期もあった。しかしチームドクターやフィジオセラピストと相談し完全に良くしてからの復帰を目指すことにした。

 3週間ほど過ごしたセンター街近くのホテルからマンションに引越し車も手に入れて普段の生活はすっかり落ち着いてきているが、毎日続く午前午後あわせて7時間以上のリハビリに拘束されて割と忙しい日々を送っている。ノーマルな練習も日本のチームに比べて比べてもかなり長めの2時間半。リハビリの選手は毎日他の選手より1時間早く来て約1時間半ほどの電気治療を受けるため必然的に練習場にいる時間も長くなる。8月のほとんどの時間をリハビリに費やしてしまったが、復帰する時に怪我前よりもコンディション的に強い状態で迎えられるように今は前向きにリハビリを続けようと思う。

  旧市街であるセンター街を仲の良いスペイン人選手のアリエッタと何度か買い物がてらに歩いてまわった。落ち着いた綺麗な街と中心にある噴水広場のカフェを気に入っている。

2002/08/04

ブラガから


 日本語だと一つ一つ別の意味を持ってしまうが、スペイン語では「命」も「人生」も「生活」も「la vida」である。日々生活を楽しく過ごす事が人生を楽しく過ごす事であり、日々生活を充実させることが自分の限りある命を充実させる事であるという気持ちになるから僕はこの言葉が好きだ。

 昨年、1年間の海外でのプレーに協力してもらう事を条件にしてJEF市原と契約を結び南米へと渡った。 今回のスポルティング・ブラガへの移籍では、マスコミを含めほとんどの人に国際移籍をする経緯・システムが知られていなかったため沢山の誤解を生んでしまったと思う。誤解を少しでも減らせればと思い書くが今回までにJEF市原フロントとの数回の話し合いの中で結論としていつも出ていたのは、自分が海外クラブに所属した時にそのクラブの所属する国のサッカー協会から日本サッカー協会に要請する国際移籍証明書がそのクラブに届くのか、もしくはJEF市原の主張を理由に日本協会内で止められるかと言う事だけだった。

 その互いの主張に白黒がつけばお互いに結果は問題は無いという互いの認識を確認して自分は1月に南米に渡った。新聞等の報道で誤解されている方も多いかもしれないがその後ブラジルのスポルト・レシフェと契約した際にそこまで事態が到達しなかったのは国際移籍証明書発行依頼に必要な自分のブラジルでの労働ビザが、所属クラブの経営状態等の影響で下りなかったためである。

 その後パラグアイのクラブチーム、リバー・プレートに所属し国際移籍証明書依頼がパラグアイサッカー協会より日本サッカー協会に行った後、国際移籍証明書がパラグアイサッカー協会に無事届いた。それを受けてヨーロッパへの移籍を視野に代理人に複数チームとの交渉をしてもらい現在のスポルティング・ブラガとの1年契約したという状況になった。現在はポルトガルから国際移籍証明書の発行依頼も出ていてその到着を待っている状況である。

  大雑把に状況を書いたがすべてを書こうとすると文章で表すには言葉が足りなくなってしまい、また更なる誤解を生む可能性もあるので現在の状況ではっきりしている部分を書いた。いずれ今回の推移をきちんと説明できる機会があればよいと思う。JEF市原との移籍交渉、またはその後の話し合いでは常にお互いの状況・考えを理解しあえていたと思うし、自分が市原というチームに対してどういう思いがあるかはJEF市原に伝わったと思っている。ただ契約として成り立たなかっただけなのだが数度と市原の社長や強化部長に話し合いの場を持ってもらえた事に感謝している。

 現在スポルティング・ブラガに合流して1週間が経とうとしている。スタッフやチームメイトの中にスペイン語を話す人間が何人かいるおかげですぐに昔からのチームメイトのようになじむことが出来た。日本とも南米ともまた違う雰囲気があるが、古い建物の多いこのブラガの街もからりとした気候も気に入った。とにかく今は自分のプレーをアピールする日々である。また昨年のように日々の出来事、チームメイトとの事、試合の事などをここで報告できるようになれば良いと思う。

2002/06/14

アルビロッハ

 スペイン対南アフリカの中継に裏のパラグアイ対スロベニアを交えて放送していた試合を観た。決勝トーナメント進出チームが勝ち点と得失点差によって決まると言う状況で、実況もどちらかで点が入るたびに勝ち点と得失点を計算して順位を予想すると言う忙しい展開の試合だった。結果的に前半に一人退場者を出して0-1で負けていたパラグアイが逆転勝利でスペインと共に決勝トーナメント進出を決めた。それほど沢山の試合を観れていた訳ではなかったがこの試合は今回のワールドカップの予選で観た中でももっとも観応えのある面白い試合だった。

 セロでチームメイトだった選手が活躍した事も嬉しかったが、パラグアイ人の不屈の姿勢とそれがもたらした最終的な結果に何かを教えられたような気がした。

 翌日にはブラジルがコスタリカに大勝して予選リーグ3連勝に。街ではいよいよカナリア色のユニフォームが目立つようになった。

2002/06/07

国内リーグ


 ワールドカップが開幕した。街で見られるブラジル国旗はいよいよその数を増やしショッピングに行けば応援グッヅがこれでもかと言うほど売っている。初戦を逆転勝ちでスタートしたセレソンを応援するブラジル国内はまさにワールドカップ一色だ。

 そんな中でもクラブチームは並行して国内リーグ(おもに州リーグ)を週に2試合のハイペースで行っている。ひいきのチームへの注目はワールドカップ中も変わらず、ライバル同士の対決となるクラシコでは代表チームのことなどどこかに行ってしまったような熱狂の応援ぶりでチームを煽る。

 サポーターはチームが常に攻撃的であることを望んでいる。ワールドカップはここブラジルでももちろん全試合が生中継されているが、放送は夜中から朝にかけてなので午前中に練習がある時は見たい試合を見る事も
ままならないのが残念だ。

2002/05/27

チャリティーマッチ


 少し前の話になるがブラジルからドイツに渡りチャリティーマッチに参加してきた。元鹿島のジョルジーニョがメインオーガナイザーとなって企画されたブラジルの子供達のためのチャリティーマッチで、ドイツチャンピオンなったばかりのドルトムントとの対戦となったこの試合には自分にとって今までサッカーをやって来た中でも特別に意義のある試合となった。

 久しぶりのゲームであったことや素晴らしい選手とともにピッチに立てた事はもちろん嬉しかった。しかしそれ以上に南米の貧しい子供達を助けるためにピッチに立ったという事が嬉しかった。パラグアイにもブラジルにも、この南米大陸には大人の助けを必要としている沢山の子供達がいる。自分がプレーすることで彼らに希望を与え少しでも助けることが出きるのならばのならばサッカー選手としてこんなに嬉しいことは無い。このチャリティーマッチに参加する経緯で多大な協力をして頂いた関係者の方々に深く感謝している。

 今回宿舎や食事の場でジョルジーニョやドゥンガと話をするなかで、彼らのブラジルでの多くの活動を知りとても勇気づけられた。彼らはそれを「トラバーリョ デ コラソン」(心の仕事)と言っていた。
素晴らしいと思う。

 現在未だに試合に出場することの出来ない状態が続いているが、チームでは日々元気に練習を続けている。ここレシッフェは南米のほかの多くの都市が秋から冬に移り変わっている中で相変わらずの真夏の天気が続いていて気持ちが良い。ワールドカップが近づきブラジルでは街中至る所にブラジル国旗があふれていて、
世間はサッカー一色になりつつある。

2002/04/15

ブラジル


 レシフェにやって来て早くも1ヶ月が経った。スポルトとの契約後すぐにチームに合流してまた毎日サッカー漬けの日々を送っている。労働ビザ等の書類が整わないために未だ公式試合に出場はしていないがチームにもレシフェの街にも完全に馴染む事が出来た。同じ南米とはいえパラグアイとは言語・人種・歴史が違うため様々な違和感があるがブラジルでも有数のリゾートビーチを持ち美しく比較的にのんびりしたこの街を僕は気に入った。

 そのパラグアイとの違いの中でもとりわけ想像以上だったのがスタジアムに来るサッカーファンの熱狂度だ。パラグアイでももちろんサポータの熱狂はものすごかったがゴール裏の一部を除けば雰囲気としてはサッカーを愛し楽しみに来ている感じだった。だがこちらはゴール裏はもとよりスタジアム1周サッカー狂。紳士も子供も若者も同じレベルでプレーヤーの動きとレフェリーの判断を追いそして叫ぶ。選手にしても明らかにそれを試合中に意識せざるを得ないようなサポーターの試合へ干渉ぶりである。

 新しい環境に来ると様々な友人や新しい感覚、知識を得ることが出来る。本当に沢山ある。また少しずつ書いていこうと思う。

2002/03/14

レシッフェ


 契約が決まるまでの2ヶ月間を再びパラグアイで過ごしていた。保有権フリーの選手を集めたチームで練習や試合を重ね、空いた時間には個人的にフィジカルコーチとコンディションを上げていった。このチームは、契約が決まり去る選手と契約が切れて新たにやってくる選手がどんどん入れ替わるのでスタメンは不定だが、パラグアイの1部リーグのチームとの練習試合ではほとんど負けることは無かった。日本では考えられないチーム編成であったがこの仲間とサッカーをして沢山のことをまた学んだ。昨年のこの時期と同じ場所、そして全く同じ気持ちでスタート。サッカーは世界中どこにでもある。

 プロサッカー人生が二度あるならば、その内一度はJEF市原で所属できる限りプレーし続けていたと思う。JEF市原は自分にとってそういうチームだ。ただ自分には一度だけのサッカー人生。自分がサッカー選手でいられる間は常に自分の可能性を広げて見たいと思っているし、自分にある可能性を最大限に模索してみたい。今回に日本に戻らなかった事も、海外で自分を必要としてくれるチームがあるのならば日本でプレーする事は考えられなかったからだ。パラグアイで1年間プレーして本当に沢山の事を学んだり感じた。それは日本では感じ得られない事であり、自分がサッカーと言う世界の共通語を操る職業であったからこそ得られたものだと思う。

 今回も移籍に関して昨年同様沢山の人に心配と迷惑をかけてしまったが、自分に出来ることはやって来るチャンスをものにして結果を残していくことだけだ。言葉も違う自分のことを知らない人間を相手にまた一からスタート。だがやりがいはある。結果を出せばまた得るものもあるだろう。とにかく精一杯頑張ろうと思う。